今月は25日の予定です

こんにちは、宍戸です。
今月の勉強會の日程及び場所については以下の通りです。

★11月25日(金)19:00〜 於)飯田橋ボランティアセンタア 

私は今囘欠席する予定ですが、Sさんがまとめ役となつて下さり現在5名ほどが參加する予定です。どんな會になるか、報告を樂しみにしてゐます。

平成辛卯 霜月二十一日
宍戸 大裕

20日の報告

こんにちは、宍戸です。
先週の木曜日、R,M,T,K,D,新參加のHさん,小生の7人で勉強會を行ひました。今囘の發題者は4人。Rからは「TPPについて」、Kからは前囘に引き續き「増税の是非について」、Hさんからはジェンダア論を皮切りに常識を疑ふことについて、小生からは「家庭の幸福は諸惡の本について」、それぞれ發表がありました。

RとKからは社會情勢をトピックにした發題が、Hさんと小生からは個人の内面を問ふ發題がなされ、いつも以上にテエマのバランスが良かつたやうに思ひます。勉強會を始めて1年目に相應しい手應へのある議論が行はれ、とても愉快な時間となりました。今囘も、それぞれの參加者の發表内容についての論及は發表者自身に任せるとして、小生の發題したテエマの内容を以下に舉げておきます。

−以下、レジュメから−
★「家庭の幸福は諸惡の本」について考へる★

1.太宰治「家庭の幸福」

「…所謂『官僚的』という気風の風洞は何か。私は、それをたどって行き、家庭のエゴイズム、とでもいうべき陰鬱な観念に突き当り、そうして、とうとう、次のような、おそろしい結論を得たのである。曰く、家庭の幸福は諸悪の本。」

あらすじ:ある官僚が、ラジオ録音のために路上で民衆と対話した。太宰はそれを家で聞いている。その官僚のエヘラエヘラ、ノラリクラリした態度に、太宰は憤る。そして想像は膨らむ。自分の業務を大過なくこなすことしか頭にないいい加減な人間にも楽しみはあり、それが、家に帰り良きマイホームパパ、良き夫、良き息子を演じることだ。そんな自分を疑うこともない人間が思い描く「家庭の幸福」というやつこそ、諸悪の本である、と。

2.最近良く見る“カラス人間”の群れ
 →子供の運動会で自分の子供をカメラで追いかけ回す若い親、孫自慢にうつつを抜かす高齢者etc
 →少子化核家族化の影響か?「自分の周囲」を守ることしか頭にない。

3.「家庭」の先にあるものを

 ※「修身斉家治国平天下」(大学)
   斉家=自分の家族を和合させ、見事に整えること。
   →「斉家」は「幸福」ということではない
 ※「士にして居を懐ふは、以て士と為すに足らず。」(論語・憲問第十四)
孔子が云う、いやしくも士という以上、道を以て天下を経営する志がなくてはならぬ。家庭の安逸を懐かしみ恋しがるようでは、まだまだ士ということはできないよ)

※参考資料
・『家庭の幸福』(太宰治
・『論語』(新釈漢文大系) 
  

 小生が今回の發題を通して言ひたかつたことは、正に發題通り、「家庭の幸福は諸惡の本」といふことです。かういふ言葉は今の時代にあつては文學の中にしか生き残つてゐないやうにも思へますが、なになにさういふこともあるまいとも思ひます。パッと見たところ、随分刺激的な言葉であるやうにも思へますが、かういふ感覺、或ひは氣分は少し前の時代までは多くの人に共有されていたことではないでせうか。かういふことを大聲で取り立てたり、人に強制したりすることは惡だと思ひますが、しかしながらこの感覺をすつかり失くしてしまふのは、人として情けないことのやうに思ひます。胸のうちに秘めたる感覺、氣分として持する時、初めて輝くものとなるやうに思へます。
 
次囘の勉強會も楽しみです。

平成辛卯 神無月二十四日
宍戸 大裕

今月は20日に勉強会予定です

こんにちは、宍戸です。
今月の勉強會の日程が決りました。

★10月20日(木)19:00〜 於)飯田橋ボランティアセンタア 

改めての説明ですが、勉強會での發題テエマは、發題者自身にとつて今もつとも切實に考へ、感じてゐることであればどんなことでも構ひません。また、發題無しで議論のみの參加も勿論自由です。

今月も新しい參加予定者があり、樂しみにしてゐます。
私はアントニオ・グラムシの、「知の大衆化」について發題するつもりです。

參加を希望される方は、いつでも當ブログへご連絡下さい。

平成辛卯 神無月六日
宍戸 大裕

葉月、長月の報告

先月の勉強會は、S、D、新參加のKとT、小生の5人で行つた。テエマはKより「消費増税の是非」について、Sより「神の愛」について、小生より「云つても分らぬを考へる」について、發題があった。例の如く、K、Sの發題についての詳細は、彼ら自身に書いてもらふことゝして、小生の發題について幾つか書いておきたい。

今回の發題の要點は、「この人には云つても分らないから云ふのはよさう」といふ態度の是非についてゞある。話し合つた結論から云へば、「この人には云つても分らぬ」と思ふ時がもしあつたとしても、虚心坦懐で話してみる。その上でその後の態度を決めるといふ姿勢を基として、臨機に進んでいくこと」といふ、極く平凡な結論に至つた。たゞ、結論の平凡は、必ずしも議論の無意味を意味しないのであつて、要は、普段何氣なくやり過ごして生きてゐる自分自身の人生の態度を一つひとつ丁寧に見直すこと、確認することが大切と考へるのだ。だから、それぞれが抱く結論の中身についてはそれ程重要ではなく、もつとも重要なのは「考へること」、それに盡るものと思ふ。
先月の勉強會が、小生を含めた參加者にとつて、いさゝかでも「考へること」を養ふ場になつてゐたらと願ふものである。
今月も會を開きたかつたが、中旬に會のメムバアであるRとDが取り組んでゐた運動「Beyond2011」の企畫があつたゝめ、そちらへの參加を優先し小生の独斷ではあるが、「Beyond2011」を以て會の番外編と位置付けることにしたい。企畫の詳細については、以下のHPを參照されたい。

http://project.eco-2000.net/beyond/

來月は平常通り、月の半ば頃に開きたいと考へてゐる。

平成辛卯 長月二十六日              宍戸 大裕

今月は18日、動物について考へやうかと考へ中

今月の勉強会は8月18日(木)19時より、いつものとほり飯田橋・ボランティアセンタアにて行ふ予定だ。何をテエマに出さうか現在も考へ中ではあるのだが、今回も震災関連で、先日福島県警戒区域内で見聞きしてきたことを共有しやうかと思つてゐる。 
 内容について簡単に記すと、つい先日、福島県福島第一原発から半径20キロ圏内(警戒区域)に取り残された牛たちの姿を撮影記録するため、区域内へ立ち入る機会を得た。牛舎4,5棟を回つたが、「凄惨」の一言に尽きる光景だつた。それぞれの牛舎を管理してゐる農家がいつごろまで水やり・エサやりを続けてゐたかによつて、それぞれの牛舎の状況は異なつてゐた。ある牛舎では、白骨化した牛の屍骸が転がつてゐた。また別な牛舎では、最近まで生き続けてゐたゞらう牛が倒れ、真つ白になつてゐた。この白いものは何だらうと目を凝らすと、全身に蠢くウジの大群だつた。いづれの牛舎も例外なく、糞尿があふれてゐる状態だつた。犬や猫の場合もさうだつたが、警戒区域内に取り残された動物たちは鎖が外されてゐればまだ何とか自力で生きるチャンスが残されるが、鎖につながれたまゝ飼主が避難してしまへば、餓死を待つより他に無い。
牛舎の中は糞尿で真つ黒に汚れてゐた。最後に訪ねた牛舎では、牛の脛位(30センチ位だろうか)まで糞尿があふれてゐて、その中に最近死んだのだらうか、横倒しになつて蠅にたかられてゐる屍骸の横で、まだ生きてゐる牛が膝を折り曲げて糞尿に漬かり、休んでゐた。目の前に仲間の牛の屍骸を見ながら糞尿に漬かつてゐる牛の姿は、人間の度し難さを思はせずにはゐない光景だつた。
小生は今の今まで、牛や豚、鶏を食べて生きてきた。魚を食べて生きてきた。命あるものを殺して、それを腹に満たすことで生きてきた。それはおそらく、これからも余り変らないのかも知れない。しかし、何かが決定的に変つたやうな気もする。それがどんな「何か」なのか今は分らないが、命あるものを殺めて生きていくといふ生き方に対しての何事かであるやうに思ふ。確かに、あそこにゐた牛たちは元々食肉として出荷される牛や、乳を出すため飼育されてる牛たちだ。要は「経済動物」だ。いづれ人の手で殺されるのだから、煮て食はうと焼いて食はうと、餓死させやうと、糞尿まみれの中で行き地獄を味はゝせやうと、勝手と言へば勝手なのか。さうでは無いだらう。さうであつてはならないだらう。あゝいふ恐れを知らない状態をそのまゝにしておくことは、牛たちだけでなく人間にとつても何一つ良いことは無い。
動物たちへのレクイエムを歌ふことはいつでも出来る。それは、すべてが終つてからで良い。
あの日記録したものをこれからどう考へ、どう伝へていくか、それが肝心だ。
18日は、動物をめぐる問題についての議論と、これをどう伝へていくかという議論をまとめて行へたらと思つてゐる。

平成辛卯 葉月十五日
宍戸 大裕

夏の日の夢

本日は、宍戸氏に代わって、綴ります。oscar です

今回は、ジャーナリスト斉藤貴男氏の『機会不平等』を読んで思ったこと。本書は、2000年に書かれ、2004年に加筆・出版された本で、ちょうど日本が新自由主義的政策へ舵を切った頃の事情がよく書かれています。

今でこそ、リーマンショック後の世界同時不況で、かつて威勢を張っていた近代経済学者たちの存在感はまったくありません。しかし、当時、例えば、中谷巌竹中平蔵のような経済学者は、政財界にとって欠かすことのできない人材でした。

新自由主義の思想の基本的方向性は規制緩和です。経済学者のバックグラウンドには、政府の規制によりうんざりさせられたとか、アメリカでは成功者がきちんと評価させられたとか、彼らなりの原体験があります。そして、規制緩和が格差を必然的に生み出すことを知りながらも、日本的経営の限界やグローバルな経済競争の激化を克服するためにそのことを容認し、問題が起きたらその後に対応をしていけばよいというスタンスを貫きました。

よく知られていることですが、規制緩和で一番顕著だったのは、派遣労働に関する規制を緩めたことです。経団連の報告などで「雇用柔軟型グループ」という言葉がよく使われていますが、要するに正社員は最小限に抑え、環境の変化に合わせて派遣労働者を生かすことができるようにルールを変えようということでした。

日本的経営の特徴と言われる終身雇用制度は、実は一部の大企業にのみよく当てはまるものであり、中小企業ではむしろ転職は普通のことでしたから、雇用の流動性を高めることはそれほど難しくはありません。大企業が決断をし、労働組合がそれを受け入れればよいのです。

さて、現在の視点から新自由主義的な政策を批判するのは簡単ですし、つくづく近代経済学者は資本主義の構造を勉強していないのだと驚きますが、私が気になったのは、一部の学者はどのような経緯を経て、御用学者になったのかということです。

詳しくは本書に譲りますが、例えば、竹中は東大を出ていません。どうやら、超エリートで構成されるハイソサイエティの少し外にいたようです。慶応大学の教授になっても、学閥ゆえに居心地は悪い。結局、そのような疎外感から脱却したいという思いがあったのだと考えられます。そして、彼の実績と弁舌巧みな彼の話術が評価され、政府の委員会の中枢に招かれたわけです。

自分の思想を、社会で具現化できるポジションにいるという快感。会議は調整の連続ですし、スケジュールも厳しく、メディアからの批判に激しくさらされるというデメリットを解消できたのは、やはり社会的地位を持っているという自負心だったに違いない。実は、資本主義において資本が大増殖する(G→W→G')ための「働きアリ」でしかないことに少しも気づかずに。

            *

まるで竹中氏がいつか書いていたマニュアル本のようですが、

・業務時間だけでは社会事情に対する知識や思考力が十分に養われない
・ある程度の長さの社会評論や論説を読まないと論理的な文章が書けなくなる

という事情に気づき、再び本を読むようになりました。しかし、時間は限られているので、本の選択は非常に重要になる気がします。新書を読むだけなら数は稼げるけど、自分なりに消化できる本は月に1〜2冊が限界。小説や雑誌も含めて、日ごろからアンテナを張っておこうと思います。必ず勉強会もその一助になります。

世の中、表からは見えないことが多すぎる。多くの抑圧や苦難が今もおびただしくあるけど、レジャー化した社会では、なぜ8月6日に集会が開かれるのか、その意味もきっとよくは理解されていない。この数ヶ月で改めて思うのは、あらゆる権力は必ず腐敗するということ。言葉を磨いて、それを食い止めるしかない。

勉強会報告

20日の水曜日、飯田橋で勉強会を行った。参加者はロ、オ、ミル、ダ、コ、式、式の友人ミ、小生の8人であった。
発表者はロ、式、小生の3人で、ロからは9月中旬に予定している企画の紹介が、式からは「神の愛について」の発表があり、小生は「ほがらかに哭く」と題した発表をした。
話し合いは思った通りに白熱し、とても面白かった。遠慮会釈も無く本音をぶつけ合える人がいるということは、大切なことだと思う(勿論それが、相手への甘えによる不用意な言動になってはいけないということを深く肝に銘じながら)。
次回もまた、8月中旬頃になるのだろうか。またみなに会いたいと思う。

平成辛卯 文月二十六日
宍戸 大裕