17日の勉強会報告

宍戸大裕です。

一昨日、新宿工学院大学にて15時から18時まで、18時からは場所を移して20時近くまで、近くの喫茶店で勉強会を行いました。今回の参加者はS、Sの友人Yさん、O、途中から参加のMと初参加のDに小生を加えた6人でした。S、Dから発表がありましたが、例によって例の如く、発表の内容についての報告はそれぞれにお任せしたいと思います。小生は「自信のなさから出発すること」について発表いたしました。

【レジュメ内容要点】
0.自己批判から(二つの「頂門の一針」)
 ①「違和感を残したまま、分かったふりする同調癖」
 ②「“真面目な”努力の不足」

1.「ぶれない」ということ(中野重治の「歌」を参考に)
 ①「これが歌か?」、「これが歌だ!」 →自分の責任を自覚した者の宣言
 ②「ぶれない」ブームの中で、その意義は?どの立ち位置からどう「ぶれない」のか?「ぶれない」ことで何を守るのか?

2.揺れ動くこころ(太宰治の「自信の無さ」を参考に)
 ①単純さという強さへの憧れと、それを笑い飛ばす知性への親和性(二面性)
 ②自信がないのはなぜか?

3.しかし僕は、ここから出発する
 ①「レヴィナスは最初に“ウィ”と言う」「まずは相手を尊敬すべきだよなあ」(三浦さん)
 ②「自信がない」ことを「ぶれない」ことで補ってみようとしてもダメさ。ならばそこに立っている自分に、いつも自覚的であるしかない。
 ③分らぬことは、分るまで問い詰めていくこと。(ぶれていいから逃げぬこと。)

※参考(友部正人さん「夢がかなう10月」から)

以上

場所を移した喫茶店では、原発についての議論に多くの時間を用いました。その時も思い、発言しましたが、私自身を顧みた時、話のテエマが原発へゆくと、とても冷静でいられなくなります。「客観的な分析」とか「代替エネルギー」の模索といった議論が始まると、私は「こういう事態を前にして必要な言葉はそういうことではなくて、”いまここで、私はこうする”という一人称の言葉しかないんじゃないか」と問いかけたくなります。社会の情勢分析にとどまり、一人称の言葉を口にして来なかったことが、原発の存在を許し、今の事態を招いたのではなかったかと考える私は、にも関わらず未だに一人称の言葉で始まらない原発論議に、冷静な態度で付き合うことが出来ないのです。
私たちがいま「原発」について語るとき、「ことばを刻むように行為を刻むべきだ」と遺した三島由紀夫のような態度が、私たち自身の生きる態度に求められるのではないかと考えています。


平成辛卯 師走十九日
宍戸 大裕