夏の日の夢

本日は、宍戸氏に代わって、綴ります。oscar です

今回は、ジャーナリスト斉藤貴男氏の『機会不平等』を読んで思ったこと。本書は、2000年に書かれ、2004年に加筆・出版された本で、ちょうど日本が新自由主義的政策へ舵を切った頃の事情がよく書かれています。

今でこそ、リーマンショック後の世界同時不況で、かつて威勢を張っていた近代経済学者たちの存在感はまったくありません。しかし、当時、例えば、中谷巌竹中平蔵のような経済学者は、政財界にとって欠かすことのできない人材でした。

新自由主義の思想の基本的方向性は規制緩和です。経済学者のバックグラウンドには、政府の規制によりうんざりさせられたとか、アメリカでは成功者がきちんと評価させられたとか、彼らなりの原体験があります。そして、規制緩和が格差を必然的に生み出すことを知りながらも、日本的経営の限界やグローバルな経済競争の激化を克服するためにそのことを容認し、問題が起きたらその後に対応をしていけばよいというスタンスを貫きました。

よく知られていることですが、規制緩和で一番顕著だったのは、派遣労働に関する規制を緩めたことです。経団連の報告などで「雇用柔軟型グループ」という言葉がよく使われていますが、要するに正社員は最小限に抑え、環境の変化に合わせて派遣労働者を生かすことができるようにルールを変えようということでした。

日本的経営の特徴と言われる終身雇用制度は、実は一部の大企業にのみよく当てはまるものであり、中小企業ではむしろ転職は普通のことでしたから、雇用の流動性を高めることはそれほど難しくはありません。大企業が決断をし、労働組合がそれを受け入れればよいのです。

さて、現在の視点から新自由主義的な政策を批判するのは簡単ですし、つくづく近代経済学者は資本主義の構造を勉強していないのだと驚きますが、私が気になったのは、一部の学者はどのような経緯を経て、御用学者になったのかということです。

詳しくは本書に譲りますが、例えば、竹中は東大を出ていません。どうやら、超エリートで構成されるハイソサイエティの少し外にいたようです。慶応大学の教授になっても、学閥ゆえに居心地は悪い。結局、そのような疎外感から脱却したいという思いがあったのだと考えられます。そして、彼の実績と弁舌巧みな彼の話術が評価され、政府の委員会の中枢に招かれたわけです。

自分の思想を、社会で具現化できるポジションにいるという快感。会議は調整の連続ですし、スケジュールも厳しく、メディアからの批判に激しくさらされるというデメリットを解消できたのは、やはり社会的地位を持っているという自負心だったに違いない。実は、資本主義において資本が大増殖する(G→W→G')ための「働きアリ」でしかないことに少しも気づかずに。

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まるで竹中氏がいつか書いていたマニュアル本のようですが、

・業務時間だけでは社会事情に対する知識や思考力が十分に養われない
・ある程度の長さの社会評論や論説を読まないと論理的な文章が書けなくなる

という事情に気づき、再び本を読むようになりました。しかし、時間は限られているので、本の選択は非常に重要になる気がします。新書を読むだけなら数は稼げるけど、自分なりに消化できる本は月に1〜2冊が限界。小説や雑誌も含めて、日ごろからアンテナを張っておこうと思います。必ず勉強会もその一助になります。

世の中、表からは見えないことが多すぎる。多くの抑圧や苦難が今もおびただしくあるけど、レジャー化した社会では、なぜ8月6日に集会が開かれるのか、その意味もきっとよくは理解されていない。この数ヶ月で改めて思うのは、あらゆる権力は必ず腐敗するということ。言葉を磨いて、それを食い止めるしかない。