『一度は考へておくべきこと』

遅ればせながら、先月の勉強會で出た話について考へてみたい。
參加者はR、S、O、N、小生の5名であつた。その場で、小生は以下のやうな一つの問題提起をした。
曰く、「福島縣人や東北の被災地の人々に連帯表明をする方法は、やはりその地にともに住み、ともに生きるといふことをおいて他にないのではないか」。
小生自身、云つたそばから弁明や、但書きの追加に追れるやうなみつともない真似はしたくなく、云つたこと以上でも以下でもないと表明し參加者の批判を待つた。そして出てきた意見としては、必ずしも連帯表明の方法が小生の主張するやうな一點に限られるものではないだらう、もつと他の方法、例へば募金でも良いし社會の仕組みを變ることに努力を傾けるといふ方法もあるだらう、といつた至極常識的な結論に集約されたやうに思ふ。
さて、先ごろ福田恆存の『一度は考へておくべきこと』(新潮社)を讀み次の一節に出會つた。
 「傍觀者は結果論を好むが、ひとたび実踐にうつれば、動機論にすべてを託する以外に、私たちは生き方を知らぬのです。もちろん、私たちは、時に傍觀し、時に実踐する。したがつて、人間の行爲にたいして、結果論的解釈と動機論的解釈とは、永遠に存在しつゞけるでせう。前者にのみ執すれば、頑な強者になり、後者にのみ執すれば、狡猾な弱者になる。いづれか一方に偏してはならないのです。」
この話は、3つの部分に分られると思ふ。
一つ目、「傍觀者は結果論を好むが、ひとたび実踐にうつれば、動機論にすべてを託する以外に、私たちは生き方を知らぬのです」といふ部分。
小生が3月19日から被災地へ入り映像記録を殘してゐることなどは、小さなことではあるが一つの実踐だ。だから、実踐に移つてゐる小生は動機論にすべてを託する以外にない。すなわち、「地元東北の人々の、生き抜いていく姿を記録するのだ」といふ動機に自らを託すこと。この動機が先鋭化すれば、前囘の勉強會で小生が問題提起した内容が、なかば必然的に生れてくるのではないだらうか。「連帯表明の仕方は一つ、ともに生きるほかはない」と。
二つ目、「もちろん、私たちは、時に傍觀し、時に実踐する。したがつて、人間の行爲にたいして、結果論的解釈と動機論的解釈とは、永遠に存在しつゞけるでせう」といふ部分。
これは、勉強會のなかで出た意見の相違を明確に表してゐる。小生は動機論的解釈を専らとし、他の參加者はおほむね結果論的解釈に立つたのだ。
三つ目、「前者にのみ執すれば、頑な強者になり、後者にのみ執すれば、狡猾な弱者になる。いづれか一方に偏してはならないのです」といふ部分。
もし小生が動機論的解釈を先鋭化し、「連帯表明の仕方は一つ、ともに生きることだ」との立場に固執すれば、いづれは狡猾な弱者になるだらう、といふのだ。これはまさに至言であつて、現代ほどこの「狡猾な弱者」が幅を利かせてゐる時代はないのではないだらうか。一見もつともらしい弱者の仮面をかぶり、強者に対して自分の我欲を押し通さうとするやうなことがまかり通つてゐるやうに見へることがある。云ひ換へれば、自分自身の「動機の正しさ」なるものに甘えてゐる姿だ。
また逆に、他の參加者のやうに結果論的解釈にあぐらをかくやうなことがあれば、頑な強者になるだらう、といふことだ。自らは決して実踐の地に立つことなく、單に批判のための批判をしたがる人のことをこゝでは指しているのだらう。
私たちはそのいづれにも屬してはならない、といふことがこゝには書かれてゐるのではないだらうか。震災から108日目。いづれの處、時にあつても自らの立ち位置や考へを見直すことを忘れぬやうにしたい。
先月に引きつゞき今月も勉強會を開きたかつたが、日程を合せられなかつたゝめお休みとした。次囘は來月の中旬を予定してゐる。

平成辛卯 水無月二十六日 
宍戸 大裕