指で追ふガラスの向かう

先月の勉強會で、小生は「中野重治」について考へ、發表した。
今月は23日水曜日に予定しやうと考へてゐたが、11日に震災が起こりそれも出來なくなつた。出來なくなつた、といふよりは、小生自身とても勉強會どころではなくなつてしまつた。
こんな云ひ方をすると勉強會自體の位置付けが低いやうに思はれるかも知れないが、さうではない。勉強會というものも、本來はこのやうな出來事が起きた時に、どう動けるか、或いはどう動くべきかを判断する力を養ふためにあるのだから。

小生の實家は宮城縣にある。小生の家族・友人は無事が確認できたが、つながりを辿ると犠牲になつた方が後を絶たない。11日は仕事のため東京にゐた。揺れの長さ・大きさから考へて震源は関東だらうと思つてゐた。知人がラジオでニュウスを聞いてゐたため、「震源はどこですか?」と尋ねたところ、案に相違して「三陸沖の方ださうですよ」との答へが返つてきた。東京がこの揺れで震源三陸沖だとすれば、仙台は相当揺れてるだらうと感じた。職場へ戻りテレビをつけてからのことは特に云ふこともないだらう。
小生は、海の水が濁流となり、畑の上や田の上を見る見るうちに押しあがつていくあの映像を連日見ながら、また宮城縣民の犠牲者が一萬人を超えるだらうとの縣警發表を聞きながら、「くにゝ帰りたい」、との氣持ちが抑へられなくなつてゐた。

19日に歸郷し、今日までに名取市閖上石巻市仙台市若林區荒濱、山元町を囘つた。
20日の夜、名取市役所を出ると左手の方角の空に、暗い黄金色の大きな満月があつた。

「空にのみ規律のこりて日の沈み廃墟の上に月上りきぬ」、といふ与謝野晶子の歌がまつすぐ思ひ出された。市役所の玄関は、安否情報を求める人の手書きのメッセエジに埋め尽くされてゐた。
その脇には、遺體が確認された方の氏名、年齢、特徴などがガラスに貼り出されてゐて、訪れた人がガラス越しにその紙の一字一句を指でなぞつていくのだつた。

小生は、今までこの故郷に、好きも嫌ひもなく、何らの感情も抱くことなかつたが(すなわち無関心であつたが)、この震災を前にした時の郷土の人々の佇まい、表情を目にし、その交はす言葉のいくつかを耳にしてゐると、無性にこの土地の人のことがいとおしく感じられてきた。取り乱すこともなく坦々としてあるその後姿たち。静かで、静かで、ぶざまな程に静かなのだ。この静かさ、これを知つてほしい。これを小生は知つてほしいのだ。誰にといふではない、誰でもいい。誰でもいいからこれを見てくれと云ひたいのだ。これが俺の生れた土地の、悲しみの悲しみ方だと、世界中の人に見せ付けてやりたいのだ。
東北人氣質、我慢強い人々、黙々不言...、どれもさうだらう。さうだらうけれどもそれはそれではないのだ。あの立ち姿を見てくれ、あの後姿を見てくれ、電話で肉親と話をしてゐるあの會話の中身を聞いてくれ。

私事ではあるが小生儀、19日より仕事を休職し、この人たちとゝもに歩むことゝした。休職期間は4ヶ月の予定である。勉強會はその間、不定期にでも開催したいと個人的には考へてゐる(この「個人的に」といふ言葉は小生が嫌ひな言葉の一つである。それでもこの場合、「個人的に」考へてゐる以上でも以下でもないのだから、これを用ゐる)。

勉強會の進捗などはまた當ブログにてお知らせしたい。

                平成辛卯弥生26日 らがあ