來週、學びの集ひあり

今月の勉強會の日が、來週やつてくる。吾人は「狂とはなにか」、といふ主題を提示することを考へてゐる。考へてゐたと云つたはうがより正確かもしれない。
 「狂」とは精神医學におけるそれではない。また儒學におけるそれでもない、と最近思ひ始めてゐるために、先に「考へてゐたと云つたはうがより正確かもしれない」といふ云ひ方をした。
 儒學における「狂」では、吾人の考へてゐる狂は捉へきれないのだ。儒に云ふ「狂」の意味内容を超へた、より根源的な人間のパッションの噴き出てくるところ、説明のつかぬもの、その出づるところを根こそぎひつぱり出し白日の下にさらしたい。が、身に持て餘す大テエマ、すでに途方に暮れてゐる。
 吾人の思ひ描く「狂」なるものは、いふなれば中野重治の「ぬくい心」、夏目漱石の「熱塊」、孟子の「浩然の氣」、天心の「さびしい浪人の心」、芭蕉の「漂泊」、三上卓の「渾身の悩み」、野村秋介の「激しき雪」、これらもろもろの、どろどろとはらわたにたぎつてゐるもの、業、とでも云ふしかないやうなもの、その出づるところを見定めたい。

 會は來週。もう時間が無い。さあ、もさもさせず、霜の真白い朝の武部小四郎、あの凛冽たる獅子吼を胸底深く轟かせ。
 
 「行くぞオォ――オオオ――」