學びあふ集い

先月末のとある夜、仲間と勉強會をした。
「會」とはいつても、集いのやうなもの。人数も三人だ。
それぞれがそれぞれに、いま切實なテエマを持ち寄り、語り合ふといふ場だつた。そしてこれこそが、ずつとしたかつたことだつた。

みづからを取り巻く歴史的・場所的・時間的・状況的一切の拘束から自由になり、ただ真實を見出すための學びの集ひ、こんなことがしたかつた。

如何に學ぶか。
目先にこだはらず長い眼を持ち、一面に陥らず多面的・全體的に想ひ、枝葉にとらはれず根本的に考へ抜く、そんな風に學びたい。

第一回目の集ひでは、①「草莽とは何か−吉田松陰の生き方」、②「運動家の心がまへ」の二つをテエマとして語り合つた。
話は縦横無尽に拡がつた。もつとも、この拡がりは脱線というやうなものではなく、むしろ連想や想像力の無限の炸裂であつて、それこそこの集ひで大切にしたいと思ふことだ。要は、自分にとつていま切實であるか否か、それのみが問はれるのだ。

ひとつのテエマを終へる毎に、それぞれが自分の心に結ばれた想ひの丈を述べる。そして、自身に生れた新たな課題を擧げる。無限に學び、とどまることなき新面目を拓いてゆくこと。そして、たゆむことなく切實であること。

この世界に己の呼吸の、あとどれほど殘されてゐるかわからない。
願はくば、この次の瞬間命終へるとも、悔いなき命であることを。

學びの集ひは月に一度、風が突然巻き起る如く、一所に起る。

                                                 霜月八日 ら・があ